しんどい毎日をなんとかやってく

 なんとかやってる人が、なんとかやってくために書くブログ

入院の本当のいきさつ

 夕方五時です、こんにちは。入院九日目。
 桜も散って、どんどん暖かくなってきました。
 今日のこの記事で、ブログ一日一記事、三十一日達成しました。初日だけ二枚書いたので、三十二記事あります。
 読んでくれている方々、ありがとうございます。

 昨日、急に動いたせいか、体がだるいです。体調が悪くてなまっていたので、体がびっくりしたのかも知れません。
 出かけた次の日はいつもこうなので、しょっちゅう出かけられないんですよね。
 次に出かけるのは当分先です。今月は恐らく、もうこんなに出かけないでしょう。
 でも昨日は楽しかったです。
 やりたかったこと、みんなできました。ちゃんとやれると達成感があります。

 買った和菓子を家においてきましたが、家族に喜んでもらえたようで良かったです。
 私も黒糖あめを食べていますが、中に砕いた大豆が入っていて、香ばしいです。
 健康に良さそうですね。

f:id:sndi_mint:20180417165528j:plain

 書き続けた今までを振り返り、感想とこれからのことを書いていこうと思います。

三十一日毎日更新した現在

 体調が良くないのもあって、書くのが大変だった日もありますが、やって良かったです。
 開始一週間ぐらいは見に来てくれる人も少なかったんですが、精神科の任意入院の予定を知らせた日からアクセスが伸びてきて、定期読者も五十人ほど増えました。
 いざ反応をもらえると、嬉しいですね。
 やる気が、出てきた気がします。ただ具合悪くて寝ているしかない入院にも、張り合いが出てきました。

 入院しながらスマホやタブレットが許可されていることと、私が文章を書くのが好きだったこともあり、なんとか続いています。
 私はADHDの体質のためか、常に頭の中が考え事でいっぱいです。それで頭が破裂しそうになり、混乱することもしばしばです。
 亡くなった父からの遺伝なので、恐らく父もそうだったんだと思います。
 ブログを毎日書いていくというのは、私の頭の整理にもなり、ただ愚痴るだけでなく、どうせなら読んだ人に役立つ記事にしようと意識するので、説明を書くのもうまくなってきた気がします。
 最近は投稿時間も意識しているので、生活のサイクルの中に、ブログがとけ込んできた気がします。

最初に入院したときの詳細

 私の父は労災で亡くなりました。
 ADHDが遺伝して、適応障害が出てきても、なかなか父は私の苦しさを理解してくれませんでした。
 苦しくて文句を言うと、よくクソガキと言われました。家の恥だから親戚に相談できないだの、頭がおかしいだの言われました。
 何度も言っておきますが、父からの遺伝です。
 でも父が危険な仕事を続けていたのは、私を育てて、家計を支えるためでした。

 大学病院の高度救命救急センターに、生まれて初めて入りました。日本の医療の最先端が集まる、一番過酷な患者さんが運ばれるところです。
 父以外にも、周囲には大変な患者さんが、大勢いました。
 心電図の波形が平らになり、長い電子音になったところまで見ました。
 私と母と、親子三人で、最期まで一緒にいました。

 父が亡くなってすぐ私が入院したので、恐らく親戚の人たちや知人は、私が親を亡くしたショックだけで入院したと思っているでしょう。
 そうではなく、長年放置されていたADHDと、過労ひいてはパワハラやいじめによる適応障害が原因です。そこにとどめを刺されました。
 体と精神のつらさが、長引いた父のお通夜に、対応し切れませんでした。
 私は一回目の入院の時、実の父のお葬式にも出ず、納骨にも参加せず、病院のベッドにいました。
 気になって気になって眠れませんでした。
 しかし結局、喪主のようなものなので、出るなら親戚や客に対応しなければいけません。でも体調が悪いので、足を引っ張るだけです。
 中小企業だったので、会社の人も大勢、お葬式にきたでしょうが、私自身も別の会社で働いて体をこわした後だったので、父を奪った会社の人たちに会えませんでした。
 何を怒鳴ってしまうかわからないからです。返せ戻せと、きっとその場にいたら、私は言っていたと思います。
 家族はもう、自分を入れても二人きりです。
 退職して三年ほど経ってから、こんなに遅くなってから、やっと入院できました。

 具合悪くても伝わらないので、退職した直後、お見合いをさせられたりもしました。
 寝ていたかったです。
 でも年齢的に厳しいものを感じていたので、私も焦って、我慢して立ち続けていました。
 体中、ストレス性神経痛でつらいのに、しっかりしろと、家族に言われました。
 とても疲れていて、体中が痛くて、反論も説明もできませんでした。具合悪いというと、相手に失礼だから我慢しろと言われました。
 でもこのままじゃ、結婚式も新婚旅行も結婚生活も、具合悪くて楽しめません。
 我慢できませんでした。このときまだ、ADHDは発覚していなくて、誤診されたまま効かない薬に苦しめられていた最中です。
 婚約が決まりかけていたのに、理由を洗いざらい話したら、ひどい精神病とレッテルを貼られて破談にされました。

すっきりしない気持ちと向き合いながら過ごす

 パワハラよりも、会社を辞めてからの周囲の風当たりの方が、よっぽどつらかったです。
 死ぬかと思いましたし、いまもつらいです。
 でも父が、じわじわと命を削って、骨になるまで我慢してくれて現在があります。
 父もADHDでしたが、父もまた、周囲からの風当たりに耐えていました。
 何かをごまかすように、浴びるほどお酒を飲んで、死に急ぐように働いていました。
 私はそれを思い出すと、苦しくて苦しくて死にそうなのに、死ぬに死ねません。

 父も理解してくれる人が、あまりいなかったのだと思います。
 親子で、なぜ生きるのに苦しいのかもわからないままだったのが、私の精神科受診とともにADHDが発覚しました。
 私も知るのは遅かったですが、もう父は、無理をするのが普通になっていたので、疲れていたようです。

 私も家族のことを消化して、理解するのに、時間がかかりそうです。
 とりあえず、まだ当分の間は入院しているので、これからのことを考えながら、休んでいようと思います。
 先行きもわからないけど、低空飛行で生きてみようと思います。
 それで父が喜んでくれるなら、だらだらしてたって、情けなくたって、美しくなくたっていいので、取りあえずは、生きてみようと思うわけです。
 これ以上ひどい状況にしないために、ほかにどうしたらいいかも、わからないので、そうします。

 個人的な話ですが、こんな感じでこのブログは続いていくと思います。
 次は三ヶ月更新を目指して、書いていこうと思います。
 お読みいただいてありがとうございました。なんかもう、辛気くさくてすみません。
 では、また明日。